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飛鳥時代|聖徳太子 飛鳥・白鳳文化 仏教


目次


  1. 飛鳥時代
  2. 聖徳太子
  3. 飛鳥文化
  4. 白鳳文化

飛鳥時代


期間

広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間。

概要

推古朝

552年(欽明天皇13年)、或いは538年(宣化天皇3年)に、百済の聖王(聖明王)が、釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り、仏教が公伝されると、587年(用明天皇2年)、大王の仏教帰依について、大連・物部守屋(排仏派)と大臣・蘇我馬子(崇仏派)との対立が激化した。後の厩戸皇子は蘇我氏側につき、武力抗争の末に物部氏を滅ぼした(丁未の乱)。物部氏を滅ぼして以降、約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。588年(崇峻天皇元年)には、蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。

飛鳥寺
飛鳥寺

587年(崇峻天皇元年)、馬子は丁未の乱で蘇我氏側についた泊瀬部皇子を大王に擁立したが(崇峻天皇)、次第に天皇と馬子の不仲が目立ち、592年(崇峻天皇5年)、蘇我馬子は東漢駒に命じて崇峻天皇を暗殺させた。こののち馬子は日本初の女帝となる推古天皇を立てた。593年(推古天皇元年)、聖徳太子(厩戸皇子)が皇太子に立てられ、摂政となったという。603年(推古天皇11年)には、冠位十二階を制定。聖徳太子が604年に十七条憲法を作り、仏教の興隆に力を注ぐなど、大王・王族中心の理想の国家体制作りの礎を築いた。

聖徳太子
聖徳太子

607年(推古天皇15年)、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る。留学生・留学僧を隋に留学させて、隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めた。620年(推古天皇28年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。

小野妹子
小野妹子

621年(推古天皇29年)に摂政であった聖徳太子が、626年(同34年)には蘇我馬子が、さらに628年(同36年)には推古天皇が没した。

舒明・皇極朝

聖徳太子と推古天皇が没した後は、蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと『日本書紀』には記されている。推古天皇没後、有力な大王位継承候補となったのは、田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)であった。蝦夷は推古天皇の遺言を元に田村皇子を舒明天皇として擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄王を推したため、蝦夷に滅ぼされる。舒明天皇の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや、643年(皇極天皇2年)、聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治を恣にした。

宝皇女
宝皇女
孝徳朝

645年(皇極天皇4年)の乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌子(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。

乙巳の変後、皇極天皇は弟の軽皇子に譲位し、新たに孝徳天皇が即位した。孝徳天皇は、日本で最初の元号の大化を制定するなど次々と改革を進めていった(大化の改新)。『日本書紀』の記述によると、645年(大化元年)12月には都を難波長柄豊碕宮に移している。翌646年(大化2年)正月には、改新の詔を宣して、政治体制の改革を始めた。その後も、今までは蘇我氏の大臣1人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の3人に改めた。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとある。649年(大化5年)、この頃、評(こおり)の制を定める[1]。650年(白雉元年)2月15日、穴門国(後の長門国)より献上された白雉により、改元する。

乙巳の変
乙巳の変
天智朝

孝徳天皇が死没した後は、中大兄皇子が政治の実権を握った。中大兄皇子は何らかの理由により大王位には就かず、退位し皇祖母尊(すめみおやのみこと)を称していた母親・皇極天皇を、再度即位(重祚)させた(斉明天皇)。斉明天皇没後も数年の間、皇位に就かず、皇太子の地位で政務に当たった(天皇の位に就かずに政務を執ることを称制という)。

663年(天智天皇2年)、百済の国家復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、白村江の戦いで新羅・唐連合軍に大敗した。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。664年(天智天皇3年)、筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫など朝鮮半島方面の日本海に防人や烽を置いた。666年(天智天皇5年)には、日本国内の百済人2000人余りを東国へ移すなど、防衛施設の整備が進んだ。667年(天智天皇6年)、都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。そのほか、大和に高安城が築城されて、讃岐に屋島城が築城されて、対馬に金田城が築かれている。

668年(天智天皇7年)に、皇太子だった中大兄皇子が即位して、天智天皇となる。670年(天智天皇9年)、全国的な戸籍(庚午年籍)を作り、人民を把握する国内政策も推進した。また、東国に柵を造った。

近江大津宮
近江大津宮
天武・持統朝

天智天皇が没すると、天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で争いが起こった。672年(弘文天皇元年)の壬申の乱である。この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人皇子が勝利、即位後に天武天皇となった。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。

672年(天武天皇元年)の末に、宮を飛鳥浄御原宮に移した。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。

飛鳥浄御原宮
飛鳥浄御原宮

681年(天武天皇10年)には、律令の編纂を開始した。5年後の686年(朱鳥元年)に、天武天皇は没する。8年後の689年(持統天皇3年)には、諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定され、頒布される。律は編纂されず、唐の律令制度である唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。

持統天皇は、子の草壁皇子に位を譲るつもりであったが、早世したため、孫である文武天皇を即位させる。この間、唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武天皇4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武天皇5年)に大宝律令が制定された。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成した。これをもって、一応の古代国家成立と見る。

文武天皇の死後、母の元明天皇が即位。710年(和銅3年)に、平城京へ遷都した。

平城宮跡、第1次大極殿(復元)
平城宮跡、第1次大極殿(復元)

聖徳太子


聖徳太子または厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)は、飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。「聖徳太子」は後世の尊称ないし諡号。

推古天皇のもと、蘇我馬子と協力して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなどして進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を定めるなど大王(天皇)や王族が中心である中央集権国家体制の確立を図ったほか仏教や儒教を取り入れ神道とともに信仰し興隆に努めたと言われる。

功績

冠位十二階

冠位十二階(かんいじゅうにかい)は、日本で603年に制定され、605年から648年まで行われた冠位である。日本で初めての冠位・位階であり、この制定により人材登用の道が開かれた。朝廷に仕える臣下を12の等級に分け、地位を表す冠を授けるものである。七色十三階冠の施行により廃止された。

十七条憲法

十七条憲法とは、推古天皇12年(604年)に聖徳太子(厩戸皇子)が作ったとされる、17条からなる法文。憲法の名を冠してはいるが、政府と国民の関係を規律する近代憲法とは異なり、その内容は、官僚や貴族に対する道徳的な規範が示されており、行政法としての性格が強い。思想的には、儒教を中心とし、仏教や法家の要素も織り交ぜられている。また、冒頭(第一条)と末尾(第十七条)で、「独断の排除」と「議論の重要性」について、繰り返し説かれているのも大きな特徴である。そしてその「議論重視」の精神が、五箇条の御誓文の第一条「広く会議を興し、万機公論に決すべし」にも(ひいては近代日本の議会制民主政治にも)受け継がれているのだとする意見が、保守層に度々見られる。

日本書紀に見られる記述

崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。推古天皇元年(593年)、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。皇室史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。

推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。

推古天皇12年(604年)4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。9月には、朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めた。

推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に薨去し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は薨御した(日本書紀では、同29年2月5日(621年))。享年49。

伝説

出生について

「厩の前で生まれた」、「母・間人皇女は西方の救世観音菩薩が皇女の口から胎内に入り、厩戸を身籠もった」(受胎告知)などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる

豊聡耳

ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先にと口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての人が発した言葉を漏らさず一度で理解し、的確な答えを返したという。この故事に因み、これ以降皇子は豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)とも呼ばれるようになった。

兼知未然

『日本書紀』には「兼知未然(兼ねて未然を知ろしめす、兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」とある。この記述は後世に『未来記(日本国未来記、聖徳太子による予言)』の存在が噂される一因となった。『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。

片岡飢人(者)伝説

推古天皇21年12月庚午朔(613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい」と語りかけた。

翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖(ひじり)は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。

後世、この飢人は達磨大師であるとする信仰が生まれた。飢人の墓の地とされた北葛城郡王寺町に達磨寺が建立されている。

箸の奨励

隋へ派遣した小野妹子からの報告をきっかけに、宮中での箸の使用を奨励したという。

ゆかりの寺院

四天王寺

大阪市天王寺区。『日本書紀』によれば、蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、四天王を安置する寺院を建てると誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波に四天王寺を建てた。『書記』によれば593年(推古天皇元年)のことという。四天王寺には、敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つの四箇院を設置したという。なお、聖徳太子の佩刀とされる七星剣と丙子椒林剣が現在、四天王寺に保管されている。本尊は救世観音で、四天王寺では聖徳太子の念持仏の如意輪観音とも同一視される。

創建時の四天王寺伽藍模型
創建時の四天王寺伽藍模型
法隆寺(斑鳩寺)

奈良県生駒郡斑鳩町。金堂薬師如来像光背銘によれば、法隆寺は用明天皇が自らの病気平癒のため建立を発願したが、志を遂げずに崩御したため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が推古天皇15年(607年)に寺と薬師像を造ったという。『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したとの記事がある。この記事をめぐり、現存する法隆寺(西院伽藍)は聖徳太子の時代のものか、天智天皇9年(670年)以降の再建かについて長い論争があったが(法隆寺再建・非再建論争)、若草伽藍の発掘調査により、聖徳太子時代の伽藍は一度焼失し、現存の西院伽藍は7世紀末頃の再建であることが定説となっている。「夢殿」を中心とする東院伽藍は太子の営んだ斑鳩宮の旧地に建てられている。

夢殿(法隆寺)
夢殿(法隆寺)

墓は、宮内庁により大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある磯長墓(しながのはか)に治定されている。遺跡名は「叡福寺北古墳」で、円墳である。『日本書紀』には「磯長陵」と見える。穴穂部間人皇女と膳部菩岐々美郎女を合葬する三骨一廟である。なお、明治時代に内部調査した際の記録を基にした横穴式石室の復元模型が大阪府立近つ飛鳥博物館に存在する。

聖徳太子 磯長墓
聖徳太子 磯長墓

紙幣の肖像など

聖徳太子の肖像画は1930年(昭和5年)、紙幣(日本銀行券)の絵柄として百円紙幣に初めて登場して以来、千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣と登場し、累計7回と最も多く紙幣の肖像として使用された。また、長きに渡って使用されたため、「お札の顔」として日本国民に広く認識されるようになった。特に高度成長期に当たる1958年(昭和33年)から1984年(昭和59年)に発行された「C一万円券」が知られており、高額紙幣の代名詞として「聖徳太子」という言葉が使用された。なお、この肖像は太子を描いた最古のものと伝えられる唐本御影から採られている。1948年(昭和23年)発行の500円収入印紙にも聖徳太子の肖像画、とされるものが採用された。

聖徳太子の肖像が描かれた一万円札(C一万円券)
聖徳太子の肖像が描かれた一万円札(C一万円券)

飛鳥文化


飛鳥文化(あすかぶんか)は、推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。時期としては、一般に仏教渡来から大化の改新までをいう。朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝や、インドなどの文化の影響を受け、国際性豊かな文化でもある。多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期であった。

仏教の伝来

仏教の摂取と流布に大いに貢献した蘇我氏とこれに反対する物部氏との対立(崇仏論争)はのちに蘇我馬子と物部守屋との間での戦乱を招く。これに勝利した蘇我氏と蘇我氏系大王のもと、王権の本拠地である飛鳥京を中心に仏教文化が発展する。飛鳥仏教は百済と高句麗の仏僧によって支えられていた。595年(推古3)に高句麗僧・慧慈、百済僧・慧聰が来朝・帰化し、翌年には飛鳥寺に住まうようになる。7世紀後半になると、中央政府が、地方の豪族への寺院建築を奨励したために、全国的に寺院の建築が活発化する。

仏教寺院

日本最古の本格的寺院である飛鳥寺や四天王寺は、氏寺として創建されたが、後には官寺(天皇が発願し、国家が維持する寺院)に準ずる扱いを受けた。造寺・造仏の技術者は主として朝鮮からの渡来人やその子孫達であった。また、594年(推古2)に仏教興隆の詔が下されたのを受けて諸臣連達が、天皇と自己の祖先一族のために競って私寺(氏寺)を造り始めた。

彫刻

仏像の材質は木造(ほとんどがクスノキ材)と金銅造(銅製鍍金)がある。代表作として、「飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏)」「法隆寺金堂釈迦三尊像」「法隆寺夢殿救世観音像」などがある。

飛鳥大仏
飛鳥大仏
その他の遺物

白鳳文化


白鳳文化(はくほうぶんか)とは、645年(大化元年)の大化の改新から710年(和銅3年)の平城京遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化。なお、白鳳とは日本書紀に現れない元号(逸元号や私年号という)の一つである(しかし続日本紀には白鳳が記されている)。天武天皇の頃に使用されたと考えられており(天智天皇のときに使用されたとする説もある)、白鳳文化もこの時期に最盛期を迎えた。

特色
建築
彫刻
薬師寺旧金堂 薬師三尊
薬師寺旧金堂 薬師三尊
その他
高松塚古墳壁画 西壁女子群像
高松塚古墳壁画 西壁女子群像
ポイント

飛鳥時代は、広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。日本初の女帝・推古天皇を立て、聖徳太子が皇太子に立てられ、摂政になった。603年(推古天皇11年)には、冠位十二階を制定し、604年には、十七条憲法を作り、仏教の興隆に力を注ぐなど、大王・王族中心の理想の国家体制作りの礎を築いた。四天王寺や法隆寺などが建てられ、飛鳥文化と白鳳文化が、華開いた。


引用文献


  1. ウィキペディア
  2. キリヌケ成層圏

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