1865年(慶応元年)または1866年(慶応2年)にフェリーチェ・ベアトが愛宕山より撮影した江戸のパノラマ。
江戸時代の期間は主流の学説では、1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから、1868年10月23日(慶応4年/明治元年9月8日)の「一世一元の詔」の発布(一世一元への移行)に伴い、慶応から明治に改元されるまでの265年間を指す。
徳川家康は、1542年(天文11年)、三河国(現在の愛知県東部)「岡崎城」で、松平家8代当主「松平広忠」の嫡男として生まれ、「竹千代」(たけちよ)と名付けられました。1547年(天文16年)、織田信秀の元へ売り飛ばされて、8歳になった時に人質交換をされて今川氏の下へ移されます。
1560年(永禄3年)には、今川家と尾張国の領主・織田家が争った「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)に出陣。今川家を倒した織田信長と同盟を結ぶと、名前を徳川家康に改めたのです。
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が死去し、豊臣家の重臣「石田三成」と「関ヶ原の戦い」を繰り広げました「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康は、1603年(慶長8年)、朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府が誕生します。
徳川家康は、「人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず」と言う言葉を残しました。「人生とは、重たい荷物を背負って遠くへ歩いて行くことと同じ。急いで行くことはない」と言う意味だそうです。
人と物の流れが活発になる中で、城下町・港町・宿場町・門前町・鳥居前町・鉱山町など、さまざまな性格の都市が各地に生まれた。その意味で江戸時代の日本は「都市の時代」であったという評価があり、「全世界の歴史を見渡してみても、日本の江戸時代ほど都市が計画的に、しかも大量に作られ、その新しく作った都市が社会構造の中で中心になった例は、ほかに見られない」とされている。同期の江戸は、人口100万人前後に達しており、日本最大の消費都市であるばかりでなく、世界最大の都市でもあった。当時の江戸と大坂を結ぶ東海道が、18世紀には世界で一番人通りの激しい道だったといわれている。
化政文化(かせいぶんか)とは、江戸時代後期の文化文政時代(1804年 - 1830年)を最盛期として、江戸を中心として発展した町人文化を指す。化政とは文化・文政を略した言葉。浮世絵や滑稽本、歌舞伎、川柳など、一般に現代に知られる江戸期の町人文化の全盛期にあたり、国学や蘭学の大成した時期でもある。広義の定義では、18世紀後半から19世紀前半の非常に長い期間を含む場合がある。史学上は、江戸前期に上方を中心に起こった町人文化である元禄文化と対比され、享楽的色彩が強いとする。
浮世絵は、江戸時代に盛行した庶民的な絵画で、江戸を中心に発達し、大和絵を源流とするが、狩野派 、土佐派そして蘭画をも内包する。浮世絵の作品形態は、肉筆画(筆で直に描いたもの)と木版画(印刷物)に分かれ、後者は一枚摺と版本(書籍)に分かれるが、庶民に広まった背景として、大量生産とそれによる低価格化が可能な版画形式があげられる。題材は極めて多種に及ぶが、美人画、役者絵、名所絵など、庶民の需要や、当時の風俗を反映している。「浮世」とは「彼岸ならぬ現世」、「過去でも未来でもない現在」、「好色の気味の濃い俗世間」といった意味が込められており、遊里や芝居町など庶民の流行であり、幕府から「悪所」とされた場所こそ、中心題材と言える。
葛飾北斎(かつしか ほくさい)は、江戸時代後期の浮世絵師で、化政文化を代表する一人。代表作に『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、世界的にも著名な画家である。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表した。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも傑出していた。
喜多川歌麿(きたがわ うたまろは)、江戸時代の日本で活躍した浮世絵師。1790-91年(寛政2-3年)から描き始めた「婦女人相十品」、「婦人相学十躰」といった「美人大首絵」で人気を博した。「青楼仁和嘉女芸者部」のような、全身像で精緻な大判のシリーズもあったが、「当時全盛美人揃」、「娘日時計」、「歌撰恋之部」、「北国五色墨」など大首美人画の優作を刊行した。
「東海道五十三次」(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、歌川広重による浮世絵木版画の連作。東海道は、将軍在所の江戸と、天皇在所の京都を結ぶ道で、かつての日本の大動脈であり、江戸時代の主要道路であった五街道の中でも、最も重要な街道であった。五街道は、将軍を中心とした国家支配を強化する目的で、江戸期に整備されたものである。53の宿場が置かれ、旅行者のための厩舎、食事処、宿泊所が営まれていた。
菜の花や月は東に日は西に
「与謝蕪村」:江戸俳諧中興の祖といわれる。また、俳画の創始者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。独創性を失った当時の俳諧を憂い「蕉風回帰」を唱え、絵画用語である「離俗論」を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
「松尾芭蕉」:芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『おくのほそ道』が特に有名。
雀の子そこのけそこのけお馬が通る
「小林一茶」:信濃国柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して、江戸時代を代表する俳諧師の一人となった。
天保3年(1832年)には七代目市川團十郎(当時は五代目市川海老蔵)が歌舞伎十八番の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」として18の演目を明記した刷り物を贔屓客に配り、天保11年(1840年)に 松羽目物の嚆矢となった『勧進帳』を初演した際に現在の歌舞伎十八番に固定した。
茶道界では、千宗旦の子の宗守、宗左、宗室がそれぞれ武者小路千家、表千家、裏千家の祖となり、高松藩、紀伊藩、加賀藩の茶頭となった。宗旦の弟子では、山田宗?が小笠原氏に、藤村庸軒が藤堂氏の茶の師範になるなど、有力な茶人と大名家との接触が深まり、武家の茶湯に影響をおよぼした。これにともない、千家の流れをくむ久保流・松尾流、河上不白の不白流、あるいは藪内流、宗和流など、家元制度が確立し、茶匠の職業化の基礎がすえられた。
三都のみならず農村にあっても、18世紀には村役人・町役人の子弟を中心に読・書・算盤を教える寺子屋が庶民の教育機関として普及した。各地で教え子たちが師匠を慕って記念碑(筆子塚)を建てている。このころから女性の師匠もあらわれ、西鶴の『好色一代女』には宮仕えをやめた主人公が「女子の手習所」を開くため、門柱に「女筆指南」の張り紙を出すシーンが描かれている。教科書としては『実語教』『塵劫記』また『庭訓往来』などの往来物(手紙文)が利用されることが多かった。
この時代の衣生活が日本服飾史のうえで占める重大な変化としては、本来は庶民的服装であった小袖形式が服飾の基本として位置づけられたことが掲げられる。小袖形式とは現今の「きもの」を指しており、上下一連の衣服で腰に帯を締めて着用するスタイルであり、こうした変化は、服装風俗の主導権が武家から町人に移ったことを意味している。男子のふだん着は、小袖の着流しが一般的になり、新たに羽織も着用されるようになった。女子は、帯の幅が広くなり、また、袂の長い振袖があらわれ、色や柄も「元禄模様」と称される華やかなものが好まれた。
麦飯・ひえ飯あるいは芋や干葉、大根などを米にまぜる混飯(まぜめし)や雑炊(粥、おじや)を主食とし、塩や醤油で味付けした一、二菜(野菜・魚の煮物・焼物)、味噌汁、漬物等を各自の木椀か陶磁製の飯茶碗、皿にしゃもじでよそって箸で食べ、食後に茶釜で煎じた茶を飲むというスタイルが社会の上下に広がった。都市では主食として白米が普及し、料理店や茶店も現れ、飽食化も進んで「初物食い」の競争も生まれた。『守貞漫稿』によれば、1杯16文の「二八そば」は寛文4年(1664年)に始まったとされている。清酒醸造の技術が進んで、酒が米に次ぐ重要商品となり、京都を中心に多数の菓子類も商品として登場した。
住生活では、都市・農村を問わず、柱を土中に埋め込む掘立柱建物から台石の上に柱を組み立てる礎石建物へと変わった。都市ではさらに、火災防止のため瓦屋根や塗屋造、土蔵造の商家もあらわれ、板敷きと畳の使用が一般的となり、厨子二階屋などの二階建も広がった。このように、家屋が一代を超えて長持ちするようになり、さらに、書院造の要素を取り込んでハレの行事に使う座敷を設け、先祖の位牌を安置して家の永続を祈念する仏間を設けたことから、家の観念が深く浸透した。
江戸時代初頭の日比谷入江の埋立などにより、江戸城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構(そうがまえ)が構築され、江戸は「大江戸八百八町」とも称される大都市へと発展を遂げ、近世日本を代表する都市のひとつとなった。武家による都市の生成とともに、その立地から各町に商工業が隆盛し、江戸文化にみえる気質を持った都市住民(町人)が各町で成立した。俗謡の「意気な深川、いなせな神田(佃節)」などに代表される、このような気質を持った江戸庶民を「江戸っ子」と称した。
江戸時代の期間は主流の学説では、1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから、1868年10月23日(慶応4年/明治元年9月8日)の「一世一元の詔」の発布(一世一元への移行)に伴い、慶応から明治に改元されるまでの265年間を指す。
元禄文化と化政文化が、発展して、浮世絵や滑稽本、歌舞伎、川柳など、一般に現代に知られる江戸期の町人文化の全盛期にあたり、国学や蘭学の大成した時期でもある。
徳川家康は、「人の一生は重き荷を負うて 遠き道を行くが如し 急ぐべからず」と言う言葉を残しました。