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縄文時代|土器 生活・文化


目次


  1. 縄文時代
  2. 縄文土器
  3. 生活・文化

縄文時代


期間

1万6000年前~3000年前。縄文時代は、元々、縄文土器が使用された時代を示す呼称でしたが、次第に生活内容を加えた特徴の説明が為されるようになり、磨製石器を造る技術、土器の使用、農耕狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるようになりました。

縄文土器(じょうもんどき)

縄文土器は、北海道から沖縄諸島を含む現在でいう日本列島各地で縄文時代に作られた土器である。縄文土器は大森貝塚を発掘したモースによって見出され、英文報告書で「cord marked pottery(索文土器)」とされた。しかし貝塚土器など様々に呼ばれ、結局、縄目文様という発想から命名された「縄文式土器」の用語が定着した。1975年(昭和50年)、佐原真は土器の名称に「式」を使うことの不合理を説き、「縄文土器」の名称を使うことを提唱し、以後、一般化した。

最古の土器

現在までに知られている日本列島最古の土器は青森県大平山元I遺跡や茨城県後野遺跡・神奈川県寺尾遺跡などから出土した文様のない無文土器であり、大平山元I遺跡から発見された土器の年代測定の算定は16,500年前(暦年較正年代法による)とされている。

土器の写真

前期・早期

丸底深鉢形土器 縄文草創期 横浜市都筑区花見山遺跡出土 東京国立博物館蔵

縄文土器前期
中期

深鉢形土器(火焔型土器) 縄文中期 新潟県十日町市笹山遺跡出土 十日町市博物館蔵 国宝

縄文土器中期
後期・晩期

人形装飾付壺形土器 縄文後期 青森県弘前市十腰内出土 東京国立博物館蔵 重要文化財

縄文土器後期

縄文土器の使用目的

縄文土器は多様な大きさと器種・装飾的な文様などさまざまなものが存在するため、土器の機能や使用される場面も異なったものであると考えられている。縄文土器の使用用途には食料資源の調理・加工や盛り付け、祭祀目的が考えられている。

縄文土器が出現した時代は、後期旧石器時代のナウマンゾウのような大型哺乳類が日本列島で絶滅した時期と重なるため、旧石器時代の狩猟により得られた獣肉を主食とするスタイルから、狩猟・漁労に加えて堅果など植物質食料を組み合わせた食習慣に変化した。また、堅果の多くは収穫時期が限られるために、貯蔵する必要が生じた。さらに、堅果を食用とするためには加熱・粉砕・煮込みなど加工過程が必要となったほか、獣肉や魚介類のように直火で炙るのは困難であるため、加熱するには調理器具としての土器が必要となったと考えられている。

生活・文化

時期区分

草創期

環境の変化に伴い貝類や魚類が新しい食糧資源になった。狩猟の獲物は、ゾウや野牛の大型哺乳動物からシカやイノシシの中・小哺乳動物に変わっていった。竪穴住居址からサケの顎骨発見。小型の骨製U字型釣針。

早期

数個の竪穴住居で一集落を構成する。組み合わせ式釣り針。ドングリやクルミなどの堅果類を植林栽培する初歩的農法が確立し、食糧資源となっていた。狩猟では、大型の哺乳動物に変わって、シカやイノシシなどの中・小型哺乳動物が中心となった。狩猟道具として弓矢が急速に普及した。

前期

竪穴住居が広場を囲んで集落を作る。湖沼の発達により丸木船が作られる。漁労活動開始。耳飾り・勾玉・管玉などの装身具が作られる。

中期

集落の規模が大きくなる。植林農法の種類もドングリより食べやすいクリに変わり大規模化する。抜歯の風習が始まる。

後期

大型貝塚。内陸地域にも貝塚が出来ていた。製塩専業集団、塩媒介集団、塩消費集団。伸展葬。交易目的の漁労民発生。

晩期

漁労の網。東北の太平洋側に銛漁開花。頭部外科手術が行われた可能性。北九州・近畿で縄文水田。

定住生活

旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた。縄文早期になると定住生活が出現する。鹿児島市にある加栗山遺跡(縄文時代早期初頭)では、16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが検出されている。この遺跡は草創期の掃除山遺跡や前田遺跡の場合と違って、竪穴住居跡の数の大幅な増加、住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡やその他の遺構が中央広場を囲むように配置されている。

縄文早期には定住集落が登場した他、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など新たな文化要素が付け加わった。最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡や金峰町の遺跡で、およそ1万1000年前に季節的な定住が始まり、1万年ほど前に通年の定住も開始されたと推測されている。定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られる。

植物栽培

縄文農耕論は、明治時代以来の長い研究史があり、農耕存否の論争は現在も続いている。縄文時代に植物栽培が行われていたことは確実であると考えられている。福井県の鳥浜貝塚の前期の層から栽培植物(アズキ、エゴマ、ウリ、ヒョウタン、ゴボウなど)が、早期の層からヒョウタンが検出されている。一方、北部九州の後・晩期遺跡の遺物で焼畑農耕が行われていた可能性が高いと考えられている。福岡県下の後・晩期遺跡の花粉分析、熊本市の遺跡でイネ、オオムギ、大分県遺跡でイネなどが検出されており、東日本からも、同じく後・晩期の10個所を超える遺跡からソバの花粉が検出されている。これらも焼畑農耕による栽培であると推定されている。

漁労

縄文時代の関東地方では東京湾岸などで大規模な貝塚が形成され、クロダイ・スズキ漁を中心とする縄文型内湾漁労が行われていた。また、九州北部では縄文時代に外洋漁業が発達し、西北九州型結合式釣針と呼ばれる独自の釣針が生まれた。

墓制

縄文時代は、住居のそばに埋葬することが一般的であり、共同墓地としてはストーンサークルが知られる。また、地面に穴を掘り遺体を埋葬する土壙墓(どこうぼ)が中心だった。

ポイント

縄文時代は、1万6000年前~3000年前。縄文時代は、元々、縄文土器が使用された時代を示す呼称でしたが、次第に生活内容を加えた特徴の説明が為されるようになり、磨製石器を造る技術、土器の使用、農耕狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるようになりました。その為、次の弥生時代との境界線があいまいになりつつあります。


引用文献


  1. ウィキペディア

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