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弥生時代|土器 卑弥呼 魏志倭人伝


目次


  1. 弥生時代
  2. 卑弥呼

弥生時代


期間

紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。2003年(平成15年)に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。

名称の由来

「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する。

弥生式土器

生活・文化

紀元前10世紀頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州・四国・本州に広がった。初期の水田は、佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福岡県の板付遺跡、那珂遺跡群(福岡市博多区)、江辻遺跡群(糟屋郡粕屋町)、曲り田遺跡(糸島市)、野多目遺跡群(福岡市南区)などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米などの存在が北部九州地域に集中して発見されている。弥生時代のはじまりである。

水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削された。

道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられた。

弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用で穀物の備蓄が可能となったが、社会構造の根本は旧石器時代と大して変わらず、実力社会であった。すなわち水稲農耕の知識のある者が「族長」となり、その指揮の下で稲作が行われたのである。また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果としてやがて各地に小さなクニが生まれ、1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀前半には邪馬台国女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭国王であることを意味する親魏倭王の金印を授けられた(倭・倭人関連の中国文献)。

漁労

稲作農耕と漁労の関係を示す遺跡として神奈川県逗子市の池子遺跡がある。池子遺跡は弥生中期の集落遺跡で、稲作農耕と外洋漁労の痕跡を示す貝塚が共に見られる。池子遺跡では銛漁やカツオの釣漁、網漁が行われいたと考えられており、カツオなど農繁期と重なる夏場に漁期を持つ魚類が見られることや、専門性の高い銛漁・釣漁が行われていることから、農耕民とは別に漁業を専門とする技術集団がいたと考えられている。

淡水漁労の開始

また、弥生時代には稲作農耕の開始により、水田や用水路など新たな淡水環境が生まれたことにより淡水産魚類・貝類を対象とした漁労も行われる。愛知県清須市の朝日遺跡は大規模な貝塚を伴う漁労と稲作農耕を兼ねた集落遺跡で、内湾漁労のほかタニシ、コイ科、フナ、ナマズ、ドジョウを対象とした淡水漁労も行われている。淡水漁労の成立に伴い専用の漁具も生まれ、大阪市八尾市の山賀遺跡や福岡県春日市の辻畑遺跡では淡水魚を捕獲する筌(うけ)と考えられている漁具が出土している。

道具類

石器

石器には、縄文文化より伝わった打製石器を中心とする一群と、朝鮮半島無文土器文化より伝わった磨製石器の一群(大陸系磨製石器)がある。一方、水稲農耕の流入とともに流入した大陸系磨製石器と呼ばれる石器群には、蛤刃磨製石斧や抉入片刃石斧といった工具や、石包丁や石鎌などといった農具があり、水稲農耕技術の受容にともなう開墾や耕起、収穫に用いられる道具として、弥生時代になって新たに導入された道具類である。

青銅器

青銅器は半島と大陸から北部九州に伝えられた。北部九州を中心とする地域では銅矛や銅剣・銅戈などの武器形青銅器が、一方畿内を中心とする地域では銅鐸がよく知られる。北部九州や山陰、四国地方などに主に分布する銅矛や銅剣、銅戈などは、前期末に製品が持ち込まれるとともに、すぐに生産も開始された。出現当初の銅剣や銅矛など武器形青銅器は、所有者の威儀を示す象徴的なものであると同時に、刃が研ぎ澄まされていたことなどから実際に戦闘に使われる実用武器としても使われていた可能性が高い。

銅矛
鉄器

弥生時代中期前半までには北部九州で工具を中心に一般化がおこると、後期以降に西日本全域に拡散するとともに、武器や農具としても採用されるようになった。鉄器は耐久性や刃の鋭さから主に利器、特に工具や農具(収穫具)として用いられた。出現当初は鍛造鉄斧の断片を研ぎ出して小型の工具などとして使っていたが、中期前半までには北部九州で袋状鉄斧と呼ばれる列島製の鉄斧が出現すると、徐々に西日本一帯へと波及していった。このほかに小刀(刀子)や鉄鏃、ノミ状工具などの存在が知られる。この時期の鉄器は鉄素材を半島から輸入して製作されており、列島で製鉄が見られるのは古墳時代後期以降と考えられる。

土器

土器は、弥生土器と呼ばれ、低温酸化炎焼成の素焼き土器が用いられた。弥生土器の初めは、板付I式土器(後に遠賀川式土器)であり、西日本はもちろんのこと東北の青森県にまで伝播した。弥生文化が本州の北端まで広がったことを物語る土器である。

弥生土器
木器

木器は主に食膳具や耕起具として使われた。特に食膳具には漆を塗ったり細かな装飾を施すなどした優品が多いが、木器は腐るために良好な状態で出土する例はまれであり、詳しいことは未だよくわかっていない。

集落

弥生時代の集落には様々な例があるが、一般的に発見されるものに、居住施設としての竪穴住居、貯蔵施設としての貯蔵穴や掘立柱建物、ゴミ捨て場や土器の焼成など様々な用途に使われたと考えられる土坑(不定形の穴)、集落の周りを巡らせたり集落内部を区画するように掘られた溝(環濠や区画溝など)の遺構がある。

墓制

弥生時代になると集落の近隣に共同墓地を営むことが一般的となった。甕棺・石棺・木棺など埋葬用の棺の使用が中心となっていく。弥生期の墓制は、地域ごと、時期ごとに墓の形態が大きく異なる点に特徴があった。社会階層の分化に伴い、階層による墓制の差異も生じた。

弥生時代の墓制を示す用語に、支石墓、墳丘墓、周溝墓などといった埋葬施設の外部施設(上部構造)を示す区分と、甕棺墓、土壙墓、木棺墓、石棺墓などといった個々の埋葬施設本体の形状(下部構造)を示す区分がある。いずれも、半島より渡来した要素と縄文文化より受け継いだ要素からなり、地域によって墓地の構成に様々な特色が見られる。

ポイント

弥生時代は、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。弥生土器を使っていた時代です。土器の他に、青銅器や鉄器も使い始めました。水稲農耕の拡大により、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。また。共同墓地を営むことが一般的になりました。


卑弥呼


卑弥呼(ひみこ、生年不明 - 242年~248年)は、『魏志倭人伝』等の中華の史書に記されている倭国の王(女王)で、邪馬台国に都をおいていたとされる。諱は不明で、封号は親魏倭王。

卑弥呼
魏志倭人伝

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。

魏志倭人伝の原文の抜粋
魏志倭人伝の原文の抜粋
卑弥呼に関する記述

「魏志倭人伝」によると卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(事鬼道、能惑衆)。この鬼道や惑の意味には諸説あり正確な内容は不明だが、魏志倭人伝で「輒灼骨而卜、以占吉凶」(骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う)とあるように卜術をよく行う巫女(シャーマン)であった可能性が高い。ただし中華の史書には、黎明期の中華道教や、儒教的価値観にそぐわない政治体制を鬼道と記している例もある。

本人は人前に姿を現さず、弟だけにしか姿を見せなかった。

福岡県糸島市の平原遺跡から八咫の鏡と同じ直径の大型内行花文鏡5枚を始め大量の玉類や装身具が出土していることから原田大六は被葬者は太陽神を崇める巫女であったとしたが、魏志倭人伝における伊都国の重要な役割から、卑弥呼は伊都国に繋がる系統の巫女であった可能性がある。

既に年長大であり、夫はいない(年已長大、無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來、少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた(唯有男子一人、給飲食、傳辭出入)。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(居處宮室・樓觀、城柵嚴設)。

卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当し、約90m)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者奴婢百餘人)。塚の大きさが直径で記されているところから、前方後円墳ではなく、円墳ないし丘地形を利用した形状だったと考えられる。

卑弥呼の墓

邪馬台国が畿内にあるとすれば卑弥呼の墓は初期古墳の可能性があり、箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)に比定する説がある。四国説では徳島市国府町にある八倉比売神社を、九州説では平原遺跡の王墓(弥生墳丘墓)や九州最大・最古級の石塚山古墳、福岡県久留米市の祇園山古墳(弥生墳丘墓)などを卑弥呼の墓とする説がある。

天照大神説

中華の史書に残るほどの人物であれば、日本でも特別の存在として記憶に残るはずで、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオミカミ)しかないとする説。

アマテラスの別名は「オオヒルメノムチ」であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。

ポイント

「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は、シャーマンで、邪馬台国を治めていたそうです。天照大神(アマテラスオオミカミ)だったとする説もあります。


引用文献


  1. ウィキペディア

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